去る7月18日、海の日。
海には行けなかったのですが、河原の親水公園で運動をしようと思って出かけました。
利根川沿いの美しい公園で、故郷での子供時代を思い出させてくれる、お気に入りの場所です。
しばらくサイクリングロードを歩き、坂道を下って公園入り口に着いたとき、私たちの前に広がったのは
ゴミが一面に散らばった公園の無残な姿でした。
夜中に花火でもしたのでしょう、美しいみどりのじゅうたんの上、そこらじゅうに、ビールの空き缶やら広告の燃えカスやらおつまみの包装やらが落ちています。
それを見たら、もう運動どころではなくなってしまいました。
ビニール袋をとりに急いで家に戻りました。
とても悲しい気持ちになりました。
私は大人になる、いえ、成人する前に、様々な「わるさ」をしてきました。
よく田舎にいるような、ガキ大将でした。
親やまわりの大人に背いて、たくさん叱られもしました。
でも、小さい時から、ゴミをポイ捨てすることだけは嫌でした。
ポイ捨てするゴミは、たいてい「自然」ではないからです。
友だちがポイ捨てしようとした飴玉の個包装を代わりに持ち帰ったこともあります。
例えば、きゅうりのヘタをとってポイ捨てしたら、それは何らかの過程をたどって、いずれは土に戻ります。生物に食べられて、間接的に土に戻ることもあるでしょう。
でも、空き缶やプラスチック製品は、捨てたらいずれは土に戻るのでしょうか?陸上生物の、食糧になるのでしょうか?
小学校で、プラスチック製品は土には戻らないと教わりました。
土に戻らないということは、ポイ捨てしたら、ずっとそこにあり続けるということですよね。そして、それは「自然」な状態ではない。
ただ、ポイ捨てせずにくずかごに捨てられ、集められそして焼かれて灰になったごみも、やはり土に戻ることは難しいのですが……。
ゴミ問題は世界が抱える問題であり、最善の解決策が何なのかは、私たちが今後も真剣に考えていかなければならないことでしょう。
あと半年で今の住居から出ようとしている私にとっても、退居の際、いかにゴミを少なくするか、ということは、今から考え始めなければならないことだなあと感じます。
話が逸れましたが、美しい場所に平気でポイ捨てをする人がいることに、とても残念さを感じます。
「自然である」「自然でない」は私の勝手な意見であるとしても、あの公園にゴミを置き去りにしていった人たちは、公園が「公共の場所」であることを忘れてしまっているのでしょうか。
誰かが汚しっぱなしにしたら、必ず誰かが片付けなければならない。
そうしないと、気持ちよく使えないから。
人が汚した場所を片付けなければならないのが自分だったら。
そういう考え方は、できないのだろうか?
悲しいな、と思ったのは、ビールの空き缶が落ちていたことです。
つまり、あの公園を汚したのは大人だという証拠です。
(未成年かもしれませんが、少なくとも義務教育を終えた人でしょう。)
落ちているビールの空き缶を見て、子どもはどう思うでしょうか。
「あ、大人がポイ捨てしている。じゃあ、僕も/私も捨てていいんだ」
と、ならないでしょうか。それが心配です。
モラルのあり方は人によって異なるのですが、それでも、
「公共の場では、汚したら自分で片付ける」
というのは、円滑な社会生活の基本中の基本であるような気がします。
本来それを子どもに教えるべき大人が片付けられないのは、同じ大人として恥ずかしいです。
ということで、家から公園に戻った私たちは、ビニール袋いっぱいにゴミ拾いをし、綺麗になった公園のわきの土手で利根川の流れを見ながら運動をしました。
やはり、綺麗な公園は気持ちいいね。
さよ
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